薩摩切子物語(集成館砲撃)

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薩摩切子

薩摩切子は、第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代薩摩藩主島津斉彬が集成館事業の一環として発展させたのです。
世界各地の参考資料を取り寄せたり、現物のグラスを見たり、江戸から切子細工の職人を呼び寄せたりして、改良に改良を加えました。
その結果、薩摩では、グラスの壁面に着色ガラスを被せて2重にする方法をあみだしました。被せガラスといいますが、この被せガラスで出来たグラスに大胆なカットを施しますと、色のグラディエィションが現れます。これをぼかしといいます。薩摩で出来た素晴らしい技術です。
大変に先進的な品で斉彬も薩摩切子を愛し、大名への贈り物に用いられたり篤姫の嫁入りの品ともなりました。

篤姫といいますのは、天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ)のことですが、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となって、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった方です。
篤姫は、薩摩の切子細工でできたグラスを手に取りながら、薩摩のことを思い出されていたのかもしれません。

斉彬は、薩摩切子を含めた近代産業化である集成館事業に力を注いできましたが、これは薩摩藩を豊かにし、兵力をも増強することが狙いでした。しかしこの事業には莫大な経費が掛かることから反対論もありました。
そのため、斉彬が亡くなりますと、薩摩藩の集成館事業は縮小されてきました。
そのうえ、イギリスと薩摩の間で薩英戦争が勃発し、イギリス艦艇による集成館砲撃で被害を受けてしまいました。
また幕末維新から西南戦争へ至る動乱もあったりして、薩摩切子の技術は明治初頭で途絶えてしまいました。
薩摩の細工職人たちは仕事を失い、各地に散らばっていきましたが、大阪や江戸に行った人も多かったようです。江戸に行った細工職人は、薩摩切子の技術を江戸切子に伝えています。


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